What is the scope of our journy?

私たちの旅はどこに向いている?

What is the scope of our journey?

私たちが目指すところは? ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス(DLT)は人格構造の迷路からエッセンシャル・セルフへ向かう魂の旅をガイドします。それは、おきまりの着地点ではない - 探求と発見の旅となります。

What is our approach?

私たちのアプローチは? ダイアモンド・ロゴス・ティーチングスは個人が持つユニークな自己の本質性を見出すことにあります。この学びは - 精神障害を治す、または治療する、構造化された人格を "調整" する 、 のが目的ではありません。セラピュティックな要素が含まれていたとしても、心理療法・精神分析の類ではないのです。ワークは日常の生活に関わりながらこの学びを有効化することにあります

What are the Latif?

ラタイフとは? ラタイフは "質" 、または、意識が現れ出るときの "形状"、エッセンスが現れ出る時の最も最初でその最も中心です。ラタイフ(単称ラティファ)はアラビア語が語源で微細なエネルギーを定義します。スーフィズムの伝統による一般的な意見では、体の中の場所と特殊な色に関連した - 知覚によって認識できる5つの主要なセンター(ラタイフ)があると認識されています"

How do we work?

どのように働きかけますか? 自然なあるがままの本質的自己を知る・学ぶことが出来る継続性のあるワークです。リトリートでは講義や瞑想を通して "エッセンス(本質)" が紹介されます。各モジュールで紹介される幾つかのトピックによって、私たちひとりひとりの何が(どんなことが)刺激されるか - セルフ・インクワイアリー(自己探求の問い)を用いて - そこから感じ・印象・気持ち・体の反応を調査し、調和が取り戻されることに開いています。リトリートとリトリートの間、グループによる、また、個人セッションを通してそれぞれの "質" を深めていきます。

What is essence?

エッセンスとは? エッセンスは私たちの真我 (True Self) の現れであり、存在・力強さ・喜び・思いやり、そして平和・静寂などとして感じることができる "質" のことです。これらは条件づけに依存せず、または左右されず、私たちの極自然な状態であって、環境や周囲の状況によってもたらされるものではありません。それゆえに、人格が発達する以前の小さな子供は彼らのエッセンスと共にあり、彼自身がエッセンスそのものなのです。

How do we experience essence?

どのようにエッセンスを体験するか? エッセンスは、感じる・見る・味わう・嗅ぐ、さらには理解することができます。いかにあれ、その最も確実な性質や様相は存在していることの "感覚" です。私たちが自分のエッセンスを体験するとき、自分が(五感によって)気づく・知る・認める・感知する・理解するものと "ひとつ"
になっています。私たちの体はただ光を感じているのではなく、"光 それ自体" であり;私たちはただ幸せを感じているのではなく "幸せそれ自体" なのです;そして、私たちはただ好奇心があるのではなく、"好奇心それ自体" なのです。

本質的な “質” は私たちの霊性が表に現れ出たものです。すべての人の中にあり、心理的・思考的・感情的な制限から自由になった時に現れ出ます。一度、これらの質が(制限から)自由になるとその質は日常生活の中であなたをサポートし始めます。人生の経験によってではなく、また、誰かが望むからではありません、あなたが本当に何者であるかの真の可能性に向かって導かれていきます。

少し長いですが参考になる幾つかの点を紹介します。ゆっくり時間を持って読んでみてくださいね。

DLTの創始者は Faisal Muqaddam

ダイアモンド・ロゴス・ティーチングスの創始者 Faisal Muqaddam は異なる伝統の教師やセラピストのワークを経験した後、1970年以降にDLTを展開し始めました。彼の内なるガイダンスはダイアモンドとダイアモンドの輝きとして現れたのです。

それぞれのダイアモンドにその知識の領域があり;この知識は、ただ直感的、ただ分析的、ただ実用的なだけではなく、それらの全てを含んでいました。それはとても正確でありまた客観的方法で徐々に進化していきます、それゆえ、ダイアモンドの質を持ち合わせているのです。 それぞれのダイアモンドが知識を供給し、その知識をはっきりと表現(明確な発音)するので、ロゴスです。内なるガイダンスは - 折りたたまれたエッセンスを展開させる方法をもたらしたので、ゆえに、ティーチングス(教え)です。 その方法は、体が基盤の感覚ワーク、瞑想の指導、そしてセルフ・インクワイアリーです。DLTは東洋の精神性(ブディズム、スーフィズム、ヒンドゥイズム)と西洋の心理学(精神分析学、エゴ心理学、発達心理学)が統合され、ゆえに、広い範囲での心理・精神性な学問(知恵)を包囲しています。 いかにあれ、この(東洋と西洋の)ふたつが単に組み合わされたのではなく、卓越した取り組みによってその両者が際立っています。西洋心理学の教えからの大きな一歩は:心の障害を治す・治療する、または、不確かな人格構造を確定する、などに焦点としないことです。たとえ、それが起こるような治療的要素を含んでいたとしても心理療法とし扱わないことです。 もう一方、伝統に基づいた精神性からの大きな一歩については:DLTはでは、個人が彼らのユニークな 本質的自己 essential self として導かれます。本質的要素の領域 essential domain が開く手助けをし、アクセス可能にします。この方法は(私たちのユニークな)自己の本質性に対して無関心であり、絶対不変の領域 the absolute domain(神性の源、全てが始まるところ)のみに焦点を置いている一般の伝統的精神修行の教えと多少違っているかもしれません。 にもかかわらず、DLTは世俗的な領域 the worldly domain(人格、エゴ体系)・本質の領域 the essential domain・完全不変の領域 the absolute domain を別々でばらばらの実体とせず、私たちはこれらのどの領域にも同時に "居る" と主張します。もし、これらの実体を切り離し、ひとつが他方よりも本物とするならば、そこに苦しみが生まれるでしょう。 言い換えると、もし、見えている領域だけに注意し、隠されている方を無視すると苦しみ、またその逆に、自分自身を神秘主義的な、または隠された領域に閉じ込め束縛してしまうと苦しむことになります。このような理解の上、DLTは日常生活にこの学びを持ち込み、また私たちが生活に関わることを勇気づけます。 

The essential map

ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス(DLT)は 複雑に入り組んだ人格構造の迷路から本質的自己に向かう魂の旅の案内をします。あらかじめ準備された到着地点を目指すのではなく - 真の探検と発見の旅として Faisal は “スピリチュアルな旅(精神世界への旅)” ではなく “スピリッツの旅(魂が旅する)” と呼んでいます。 DLTは、それぞれの個人が彼ら自身のユニーク性を見つけ出すことができるように隠された王国(本質)を示す地図を提供しています。DLTが主とすることは、個人が本質的自己の意義を見出すことを助け、私たちがなぜこの世界に存在するのか、また、私たちの忘れ去られたエッセンス(本質)を救済することにあります。  DLTはある種の世界観や哲学を教える、または強要するのが目的ではありません、また、傷を癒す、何であれ個人が背負っている問題を修復することが目的でもありません。 客観性はある種の意識や気づきを生み、私たち自身の問題に対してもさらに客観的にみることを可能にします。その結果として、苦悩に意味がもたらされ、ただのエネルギー損失とならず、私たちの真の姿へ再びつながるツールとなることができます。 このような客観性を持つ意識状態の発達は構造化された人格とエッセンス(本質)を識別するために必要なスキルを育てることよって成し遂げられます;エゴとの同一化から真の主体性へ。意識がさらに目覚めると “問題” と同一化せず向かい合うことができ、問題を ”理解する” に至ります。一度、これを体験するとエッセンスの面が自然と満ち溢れ、あなたの無用な努力なしに癒しが起こりま

Essence

生まれたての新生児がそうだったようにエッセンスは生来のものです。それは、私たちの真の姿であり、私たちの存在の真実であり、私たちの純粋な意識と気づきです;それは “私は I am” を直接体験することができる私たちの一部です。エッセンスは条件づけとは無関係の - 私たちの真我です;社会的文化的な事情や状況の結果ではなく、完全に私たち自身に属するものです。グルジェフはそれこう表現しています 「... 人は2つの部分からなる:エッセンス(本質)とパーソナリティ(人格)である。エッセンスは彼自身であり、人格は彼自身ではない 。幼い子供は人格がまだ育っていない。その子供はただ彼自身である。彼はエッセンスだ。彼の欲望、味覚、好き嫌い、彼はそれ自体として生きている。」

Experiencing of essence

エッセンスの実体は  - 私たちが全体として在る - です。肉体として、感情として、精神として体験されます。感じることができ、見ることができ、味わうことができ、嗅ぐことができ、さらに精神や感情を理解することもできます。 分かりやすく言うと、すごく幸せに感じた時を思い出してください。幸せはただの思いはありません;楽しかったし興奮したでしょう。人生に対してポジティブになり、体は軽く生き生きとしています。心地よく幸福でおおらかです。このケースではイエロー・エッセンスが活発に体験されています。 エッセンスにはたくさんの面があり、愛、喜び、幸福、力強さ、慈愛(思いやり)などとして体験されます。閉鎖感(いきづまり)や抵抗(敵対心)から自由な時です。いかにあれ、その根本的で最も決定的な要素は "実在している" という感覚です。私たちが自身のエッセンスを体験する時、その知覚と "ひとつ" になっています。間に立って私たちの存在に気づく立場にいる必要もありません。 通常、個人個人は別々であり、個性化した体を持ち、感情を持ち、考えを持ち、そのように存在していると思っています。言い換えると、私たちは、自分の存在を肉体・感情・心の体験から推測しているのです。ですが、エッセンスを体験している時、私たちが存在していることを知るためにこれらの体験に依存する必要はありません。 同じ例えを用いてみましょう、私たちがイエロー・エッセンスを体験している時、体が軽さを感じているのではありません、軽い"が "起こっている" のです。私たちは幸せを感じているだけではありません、幸せが "起こっている" のです;私たちはただ興味を持っているのではありません、興味が "起こっている" のです。それでこそ、体と心と思考がひとつなのです;私たちの完全体として。感覚・感じ・知覚が私たちの実体であり、確実に実在していることを直接的に知ることができるのです。

Losing touch with essence

エッセンスが - 本当に私たちが誰であるかという事実であるとすると - 多くの私たちがそれに全くつながることができないのは馬鹿げています。にもかかわらず、周囲の勢力は反対するか、反対せずともエッセンスがサポートされないのが常です。 当然とされる外的社会の力の成り行きから見ると– 例えば、家族・教育・または宗教ですが – 私たちのエッセンス(生来の資質・能力)は無視され、誤解され、拒否されるか傷つけられてきました。そのため、私たちは赤ちゃんの頃から大人になるまでに、徐々に、エッセンスの異なる側面を失っていきます;自らのエッセンスを葬り、それとの繋がりを失います。 エッセンスとの繋がりを失うと、失ったエッセンスの代償の結果として生じた穴を埋めるために人格が発達し始めます。人格(偽りの個性、自己概念、エゴ体系)には、頑固や、平気を装う(我慢)などがあり、自身の体験また世界を体験することを幾分か堅苦しくしています。まるで、この世を理解するのにレンズやベール越しにといった感じです。依然としてエッセンスと完全に切り離されており、ベールが存在していることすら気づかず;私たちの現実は人格に覆われた世界になっています。 人格体系の根底に同一化・同一視があり、それによって主体性・個性・独自性・自分自身であること、またはセルフ(自身)である感覚が与えられます。人格が私たちの事実上の自分と考えるようになり、それと同一化します。例えば、私たちが「私は軟弱な者です」と言うとき、私たちは弱々しさに同一化し、それと切り離して自分を見ることができなくなります。 我が家への道、真の姿を見つけるには、エッセンスとの繋がりを "どのように" 失ったか知ることが重要になります。この旅で、時には人格がエッセンスに闘争を仕掛けてくるでしょう、エッセンスに再び繋がると人格の虚偽や浅在性(上っ面)を暴くからです。人格が私たちの敵であり、戦って消滅させなければならないと言っているのではありません。エッセンスに対して手厳しくあっても、人格は周囲の環境の中で私たちの生存を助けるために不可欠に発達したことを覚えておかなければならないでしょう。 それに、人格はしばしの間、私たちに仕えていたのです。従って、私たちの目的は人格を変える、または、正す、ことではありません。もしろ、客観的に人格が何のためにあるかを見ることが目的であり、それは私たちに仕、 "主人ではない" こと、それが私たちの真の姿ではないことを知ります。偽りの人格から非同一化することができたら、エッセンスは開花し始め自発的に変容が起こり続けるでしょう。

Theory of holes

穴の理論: 教えは主に、苦しみはエッセンスとの、そして、私たちが生存している現実との繋がりを失っている結果である、という考えの上にあります。DLTの重要な構成要素となっている穴の理論によれば、環境によるトラウマティックな事件や葛藤の結果としてエッセンスの幾つかの側面との繋がりを失います。 エッセンスとの繋がりを失うと、元気・活力・自信・自発性が欠乏して "穴" が空いたように感じられます。よって、それらの欠乏を補うため、エゴ体系を発達させます。構造化された人格が失った質を偽装して心理的(記憶・痛み・そして葛藤)な穴を埋めようとします。言葉を変えると、エッセンスの感覚を失った結果、堅苦しい人格体系、無意識の行動(思考)様式に陥り、物事を処理するメカニズムとして偏狭な信念体系を発達させます。 例えばこれまでに、自分が何かをやってみたかった時、それを両親に妨害された結果として "意志 Will" の本質的な質との繋がりを失ったかもしれません。この繋がりを失うと、"意志" の欠乏から自分自身を守るため、頑固さや強情を発達させるでしょう。 重要なことは、エッセンスとの繋がりを失い人格を発達させることは自然な行程であり、例え、健全な環境で育ったとしてもそれが起こりえることを覚えていましょう。私たちの周囲の環境のあり方は構造化された人格に支配され、ゆえに、エッセンスの必要性を訴えることができずにいます。 それ自体が悪く、また間違っているということではありません。その逆に、エゴ体系の発達は健全な行程であり、エゴ体系はエッセンスの欠乏によって発達し私たちに仕え、エッセンスを思い出す旅の中でも継続的に私たちに仕えるでしょう。 例えば、5つの言語を学び最高の成績を収めたかもしれません、または、(自分の)穴が感じないように良い母親になろうともしました。もしそれが、これらの穴の成したことでなければ、決してこのようなことを学ばなかったかもしれません。そして、今、自身で耕したすべてのスキル(技能)と質は日常生活の支えとなり、そして、私たちの本質に向かう旅も支えてくれるでしょう。 DLTの目的はこれらの穴に気づき、どのように満たしているか(騙しているか)、客観的でいて、開いており、そして、裁かないことです(非難しない)。重要な考えは、"穴" に対する敵対的防御や抵抗をやめてエッセンスとの繋がりをどのように失ったかの経歴を理解すれば、エッセンスは自発的に流れ始めるということです。 目的が正すこと、癒すこと、でないとしても、偽りの人格が何のために構築されたか知ることで必然的に何らかの矯正や癒しが起こるでしょう。本物の自分に気づいていることで無用な努力なしに、私たち自身との、宇宙との、そして私たちがやって来た神源との繋がりに癒しが起こります。エッセンスが私たちを - 失われた状態から救い、傷を癒します。

Latif

ラタイフとは:クエート出身のサイコ-スピリチュアル(心理-霊性)教師であり、ダイアモンド・ロゴス・ティーチングスの創始者である Faisal Muqaddam は、エッセンスをオイルランプの中のオイル、ラタイフは燃える炎のようにその芯から蒸発するミストと例えます。ラタイフの質はとてもデリケートで希薄ですが、同時に、実体のある微量の液のようでもあります。 ラタイフは、最初はわずかな、また微細に表されるエッセンスの質であり、意識の形であり、中心でもあります。ラタイフLataif(単称ではラティファLatifa)という言葉は微細なエネルギーを定義するアラビア語です。Faisal Muqaddam は伝承的スーフィズムからラタイフの体系を私たちの時代の言葉に適応させました。伝承的スーフィズムの一般共通意見では、ある種の色、そして体に知覚されるプライマル・センターがあると承認されています。 ラタイフを描写する最良の方法は - エッセンスの幾つかの基本様相の体験の最初 - です。例えば、ホワイト・ラティファでは、真の意志 true will が立ち上がるその最初、このエッセンスに触れた時、内なる支えや堅実性、無理のない行動、自信が湧き上がってきます。 それぞれのラタイフはエッセンスに向かう扉、または、入り口としての役割を果たします。ラタイフが活発になると、そして、神秘体 subtle body が開くと私たちはもっと実体であるエッセンスと共にあるのが感じられ、思考は没頭せずに休んでいます。 このプロセスにいる時、人格のある種の一部がエッセンスの失われた側面に取って代わり表面に現れるのを直面するか、もしくは客観的に知ることになります。この "意志 Will " は徐々に堅苦しい人格体系に変容を起こし始めるでしょう。